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青年達は、悩んで悩んで悩み尽くした結果、ぼくのもとに来て、そして「生きること」の意味を問い、そして「なぜ、死んではいけないのか」とせめよる。
 答えは唖然とするくらいない。なぜ自殺してはならないのか、ぼくにはわからない。人生50代の半ばまで来てしまい、ふりかえってみるに、確かに「生きていてよかったよ:と自信をもって言えることは無いのだから。あのとき−僕は20代のころ何度か死のうとした−死んだとしても、それよかったのでないかと思うのであり、その後必死の思いで生きてきてよかったのか、考えれば考えるほどわからなくなるからである。

(中略)

 T君、きみもときおり涙を流しながら「生きるのが苦しいとぼくに訴えかける。それはぼくにとってあたりまえのことだから、「そうではない」とは言えない。苦しくてもなぜ生きなければならないのか、ぼくにはどうしてもわからない。だから、ぼくはきみからそう訪ねられると、答えられない。君は薬を飲んで、足下がふらふらして、いつも瞼を半分閉じたようなぼんやりした顔をして、そして僕に向かってグサリと言う。「苦しいんです」と。でも、ぼくは何もしてやれない。何故なら人生とはその通りだなのだから。それは、あまりにも真実なのだから。

(中略)

 こんな中で、最近一つの事件があった。60歳くらいの男が「引きこもりの息子を殺したい」と真顔で訴える。塾生たちを交えて何度も何度も話した。「あんたの顔なんか見たくない」と露骨に嫌悪感を示す者もいた。「早く殺してしまえば」と吐いて捨てるように言う者もいた。そんな中で、酔いに任せて僕は必死な思いで怒鳴った。「子を産んだだけでも親は罪なのに、そのうえ殺すとは何ごとだ! あなたは息子を殺してはならない。たとえ、あなたが彼に殺されようとも殺してはならないんだ!」
 めまいがした。彼を殴ろうとすら考えた。このまえ再会すると、その男はぼくに平穏な顔で言う。「先生、ありがとうございました。あのとき先生から怒鳴られて、息子に対する殺意がフッと消えました。もし、先生にああ言ってもらわなかったら、いまごろ確実に息子を殺していたと思います」。ぼくは顔がゆがんでいくのを感じる。涙が出そうになる。「よかったよかった」とは言えない。生きていることは、無性に悲しいことだなあと思う。

こういうことがこれから何十年、何百年、何千年、何万年繰り返されて、そして結局みんな死んでいくのだ。それなら、なぜ「いま」死んではならないのだろうか? ぼくにはわからない。いや、たったひとつだけわかっていることがある。
 君がいま死んでしまうと、ぼくは悲しい
 だから、きみは死んではいけないのだ……。



中島義道「<私をめぐる哲学>−−私はどうせ死ぬのに、なぜ「いま」死んではいけないのか?」
『現代哲学が分かる』より。