読書-『私的所有論』を読む

第二章「私的所有の根拠と無根拠」
◆だがその身体が渡しのもとにあること、私がその身体のもとにあること、また意のままにそれを私が使えること、これらの事実と、その身体を他者に使用させず、私の意のままに動かしてよい、処分してもよいという規則・規範とは、全く次元の異なったところにある。,p27
◆近代の所有を巡る規範の特徴として以下のようなものがあげられる。第一に個人単位に財に対する権利が配分されること。第二に、配分されたものについて独占的で自由な処分が認められること。第三に、その権利は、ある者が実際にあるものを所持している、利用しているといった具体性から離れていること。,29
→注(1)近代的所有権概念確立以前には、所有権(dominium)は政治的支配と一体のものだった。所有権は「支配の客体(ことに土地とその土地の上に生活する人々)に対する保護の義務と結びついた権利、いわば義務的な権利(pfichtrecht)としての性格を持っていた」のであり「支配に服する人と物に対する関係で職務とみなされた」。このヘルシャフトとしての諸油研の概念から、個々人の経済的、私法的な所有権、ヘルシャフトないし所持と結びついた利用権ではなく実態の処分権としての所有権への移行として近代的所有権への移行がある。,p57
◆世界にある財が、交換の始まる時点において誰のものであるかが決定されていなければ、交換は怒りようが泣く、その初期値の設定を定める規範は、市場の中にはない。あらかじめ財を配分しておく必要、財の配分についての規則を設定しておく必要がある。,p30
◆ロックをはじめとする論者たちが持ち出すのは、自己労働→自己所有という図式である。自己に属するものから派生・帰結したものに対しては、その者が権利・義務を負うという。,p31
◆(略)一つ確かなことは、身体そのものは私自身が作り出したものではないということである。(中略)私の身体の内部器官は私が作り出したものでも制御できるものでもない。だから、この主張によって身体の所有を正当化することはできない。(中略)「自分が制御するものは自分のものである」という原理は、それ以上遡れない信念としてある。それ自体を根拠づけられない原理なのである。,p35-6
(”共有地の悲劇”論を見た上で)以上は(中略)財が誰かのものであった方がよいということは言えるとしても、誰のものであった方がよいのかということは言わない。,p51
◆この説で見てきたこと(効能による"私的所有"の擁護論)は、自らの生産物の私的所有について、その「効能」による正当化が、あるものをその人しか使えない、例えばその人しかその人自身の体を働かせることができないという事実に依拠しているということであり、この条件を満たさない一切のものについては、仮に共有より私有が有効であると言えたとしても、それをどのように配分すべきかは一切指示しないということである、p51-2
◆私的所有の規則を十全に正当化する論理は(中略)どこにも無い。むしろ、功利主義は積極的に否定する働きをする。
→ex:サバイバル・ロッタリー