わたしはだーれ?

リバ研参加者向けの雑文。
リバタリアンの基調の一つとして、自己所有権のテーゼというものがある。とくに自分の身体については。
経済的格差は、生まれながらにどうしようも無いものであり、そこに所得再分配の必要性が生まれる。
経済的格差と同じように身体的な格差も分配しようという話がある。「眼球くじ」と呼ばれるもの。
それは、健常者と障害者の差は生まれつきであり、技術的に問題が無いのなら眼球の再配分をしなくてはならない。嫌だとみんなでクジを引いて強制的に眼球を取り出して再分配する。生まれつきどうしようも無い事情であるが故に、所得と同じように再分配をしないという理由は存在しない
これがいわゆる「眼球くじ」。応用倫理学やったことがある人には「サバイバル・ロッタリー」と同様のものと考えてくれていい。
「眼球くじ」に賛同とまで言わなくても、嫌だなぁ・・と少しでも思うところがある。というのならば
その人は「自己所有権テーゼ」に部分的に賛同したことになる。というのがノージック、やコーエンの論法である(らしい)。
まさに直観的な説得力を持つ。この素朴さを突き詰めて理論化していく様にリバタリアンに惹かれる人も多いんじゃないかな。
少なくとも、おいらはそうだ。


もちろんこの直観的な説得力は「所有」という概念が先行して私たちの中にあるから説得力を持つものだ。
私たちがここに存在する、というただそれだけのことであったはずのことを、圧政に対する抵抗の意味を込めて「私はわたしを持つ(=所有/処分する権利を持つ)」という風に理論化して、この問題を乗り越え/棚上げした。
これは前回のリバ研で、鷲田清一の議論をまとめたときに確認したこと。
そして「所有」という内向きの概念では無く、「交通」による概念へのシフトを唱えていた。<わからなかったけど。


一方「私はわたしを持つ」、この<私>は何だ?とひたすら内向きに考える永井均という哲学者がいる。
永井は『<子ども>のための哲学』の中で、こんな議論を提出する。
永井の議論によると「私(A)はわたし(B)を持つ/である」。この場合、その人を表すものはBだ。
Bは自我とも言えるし、人格とも言えるし、他者から認められた存在とも言える。つまりおいらの例で言うならば
「オイラは、他の誰のものでも無い<ioring>なのである。」
この言説は、おいらioringが他の何物ではないioringであることを表す。ioringの固有性を表す。
問題とするのは、次だ。
ioringという固有の存在をもつ<おいら>って何だ?先の例で言うならAとは何か?
要するにioringは固有の存在だが、ioringが<おいら>である必然性はどこにあるのだろう?
永井に言わせればそんなモノは無い。<おいら>がioringであることは偶然以外の何物でも無い。

ある人間がかくかくの性質を持っていれば、その人間は<ぼく>になる、ということはありえないのだ。なぜなら、<ぼく>にはただひとつの事例しかなく、同じ種類の他のものが存在しないからである。だから、そいつが<ぼく>であるという事実は、そいつがもっているどんな性質とも関係なく成り立っていると考えるほかはない。つまり、そいつの持っているどんな性質も、そいつが<ぼく>であったことを説明しないのだ。だから、そもそも<ぼく>が存在しなければならなかった必然性は何も無い。<ぼく>の存在はひとつの<奇跡>なのだ!(P58)

この場合の<ぼく>を「個別化された脱人格的自我」だと説明するが、それではわかりにくい。
これは要するに「魂」「霊魂」なのだ。「魂」は「<ぼく>は<ぼく>」という意味でしか無い。

<おいら>という「魂」がioringであった必然性は無いのであり、他の誰かであった可能性はもちろんあったのである。
アイデンティティの根拠(と言ってしまっていいのだろうか)は、人格(記憶)説と身体説があり、この説は霊魂説と言えるだろう。


もし霊魂説を採るのならば「自己所有権テーゼ」というものはとてもあぶなっかしいものになる。
「直観」にあぶなっかしいもクソも無いんだけども
そもそも自己所有権テーゼは「私(A)はわたし(B)である」(C)の、何を守ろうとしているのか。
おそらくC=その言説そのものを守ろうとしている。
ここまで来ると、先の鷲田の議論が重みを増してくる。霊魂説から敷衍するに、鷲田の議論は
私(A=魂)がわたし(B)を「所有」する。という状況に苦言を呈していたと考えることは出来ないか。
魂(A)とその人間(B)が一緒になったことは偶然であって<所有>という権利の根拠とは一切関係が無い。
だからこそ彼は「交通」という概念を用いたのでは無かったか。<まだわかってないけど。


稲葉振一郎は『リベラリズムの存在証明』の中で、この<魂>の議論とノージックの議論を引き合わせた上で、
最小国家を擁護する議論を提出していた。昔消化不良だったが、今なら違った視点が得られるかもしれない。
またノージックの「自己所有権テーゼ」を認めたうえで、経済不平等を是認する根拠を問う論者としてG・A・コーエンがいる。
夏休み中には、彼らを潰したい。