リバ研? 自己決定? 安楽死?

しゃけんぜみで、何故か立岩氏の議論になり、安楽死尊厳死をテーマに議論が少々。
ちょうど前回のリバ研で扱った当たりと重なったので、以下レジュメの一部を転載。
『所有のエチカ』(ナカニシヤ出版)の「死の決定について」の一部分。
<レジュメここから>
安楽死」の背景にあるもの
・「安楽死」は私たちにとって都合がいい。家族の負担・社会にとっての負担が無くなる。
→結局私たちにとって都合のいいものとして、死の自己決定・安楽死を認める。
自己決定を発動をさせるもの
耐え難い身体的苦痛?→今では苦痛を和らげるものがある。
「制御できるもの/こと、それこそが主体」という価値がある。
→カラダをココロを制御出来なくなったらその人の価値が消える。私には価値が無くなる
だから死を選ぶ。選ぶべきだと思う。選ばなくちゃいけないと思う。

生を私のものとしたいことから発する絶望がその人を死に追いやっているのだと考える。私のことができること、私に関わる決定ができること、それらを価値としてしまったことが、その人を死に追いやり、その人は死の自己決定を行おうとする。(略) 考えると、自分のできる範囲で生きてもらうという規則と価値のもとで人々が振る舞ってくれた方(ほう)が周囲にいる私たちに迷惑がかからず、生産の増大につながり、私たちにとって都合がよいという以外の理由は見つからない。(略)
 「都合のよさ」によってしか指示を得られない規則・価値を、私たちは、正義とし、それ自体価値あるものとしてしまった。その人が在るということが、その都合よさよりも大切なものであると、もしも考えるなら、ここにあるものはそれに反している。そして、その人が今信じていることは、この社会にその人が生きていることによってもたらされた、少なくとも信じてよいものとされていたのだろう。これらの意味で、私たちは、この社会は、その人に間違いを教えた。間違いを教えてしまったことによって死ぬことを認められないなら、安楽死もまた認められない。(P162-3)

明らかにされたこと
・ その人の決定を認めないこと=その人を否定することになること・・・「決定の対象」
・ 自己決定の価値/認める根拠は、「自らを制御出来ること」/「都合の良さ」であること・・・「決定の環境」
・ 自己決定を認めると同じ根拠によって、「安楽死」への懐疑が生まれること。「私たちの願望があまりに簡単に他者において実現されるべきでは無いと考えるとき、それを認めるべきでない(P160)」・・・「決定の仕方・きっかけ・起動するもの=選考のありかた」
現実的に出来ること
・物質的な条件を作り出すこと。人工呼吸器をつけるかつけないかという希望の前に、つけることが出来ない(人々がいる)現実の改善。
・それは違う/そんなことで死ぬことは無い、と言うこと
<ここまで>


「そんなことで死ぬことは無い、と言うこと」は、中島義道の文章を思い出す。
過去引用してたな、そういえば。↓
http://d.hatena.ne.jp/ioring/20040714
やっぱり人間ってそんなもんなんだよね。
(昔の)ノージックならいくら周りの影響を鑑みようとも「自己決定」を擁護するだろう。
ノージックは「自己の自由の絶対性」の理念を信じ、全力で擁護している。
立岩氏のまなざしの先には現実の障害者たちが、ALS患者たちがいるのだろう。
社会学者と分析哲学者の違い、か。