科学的?

タバコの害はさておき、環境問題しかり、少年犯罪しかり「科学的」という言説が、政治的背景に利用される姿は気色悪い。
「科学」があたかも現代社会のマジックワードのようだ。
そもそも「科学的」という言説がどんなものか、決着ついているわけでも無いのにね。
確かに研究などは出来る限り「科学的」なものであるべきだと思うが、どこぞの健康番組のように「科学的に検証しました!」などと行って、提供するようなものはうさんくさくてしょうがない。研究の分野でそんなこと言ったら宗教だ。
「科学的」かどうかは、発表されたそのもの自体では無い。
その理論が様々な批判に耐えうるかどうか(テストされうるかどうか)。
またそれに応答する「姿勢」のことだ。

知識は確実性の探究ではありません。あやまちは人の常です。…誤り、誤謬との闘いとは、客観的真理を探究することであり、真でないものを発見して取り除くためにあらゆることをおこなうことです。これが科学的活動の課題なのです。したがって、こう言ってもよいでしょう。科学者としてのわれわれに目標は客観的真理、つまり、より多くの真理、興味深い真理、より良く理解可能な真理である。…そして科学的知識の方法とは、批判的方法です。それは、真理探究に、したがって、真理に奉仕する、誤りの探求と誤りの排除の方法です。(P16-8)

独断的思考に対する闘争が義務となります。またかぎりなく知的に謙虚であることも義務となります。とりわけ、平明で、もったいぶることのない言葉を育てることが、義務、とくにあらゆる知識人の義務となります。(P78)

研究をする優雅な生活は、あと半年もせずと終わる。
しかし、物事にたいする「科学的」な態度。知的に謙虚であることは、忘れずにいたいものだ。


カール・R・ポパー、1995『よりよき世界を求めて』未来社