「無尽」というシステム

実家に電話してたら、店を営業してた。今日はゴルフのはずなのに。
聞いてみると「無尽」の日らしい。みなさんご存じか、このシステム。
おいらもニュアンスでしか知らなかったので、軽く検索をかけてみた。

無尽(むじん)とは金融の一形態。複数の個人が講を作り、一定額の掛金を定期的に集金、入札や抽選によって融資を受ける。(略)
21世紀でも、日本各地(主として農村地域)で、無尽や頼母子と呼ばれる会・組織が存在している。メンバーが毎月金を出し合い、積み立てられた金で宴会や旅行を催す場合もあれば、くじに当たった者(くじと言いながら実際は順番であることが多い)が金額を総取りする形態のものもある。中には一人で複数の無尽に入っている人もいる。地縁的なつき合いの延長としての色彩が強い。
ウィキペディア「無尽」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E5%B0%BD

これを読むと、実家で行っている野球賭博まがいな行為は、無尽の亜種だなぁと思う。
 そういえば、パットナムは民主主義が高度なパフォーマンスを維持するには、その地域の社会関係資本(Social Captal)の大小に関係があるとした。その社会観系資本を培う素地として、互助組織の活発さを例に出していた気がする(正確には社会関係資本が豊富な地域では、互助組織が順調に稼働するという例)。リンク先で書かれているように、無尽も当初は互助的な意味合いが強かったのだろう。現在は地域が集まる一種の口実、といったところか。しかし、その口実があるか無いかで、横のつながりというのも見ることも出来る。
 この「無尽」は社会関係資本に繋がるのだろうか。検索してたら興味深い記事を見つけた
「無尽」で人とつながり−Yomiuri-ONLINE

その結果、「無尽が楽しみ」という高齢者は「楽しみでない」人と比べて、社会的役割や自立度などの生活活動能力が高い水準を保っていた。特に無尽で「健康」と「時事関係」の話題が多い人ほど高かった。

やはり、地域だけでは無くとも、こういった”つながり”というものは人々にとって大事なようだ。
しかし、先週の地獄少女のような話、つまり団地でのいじめのようなものを見るたびに、このようなものの大切さを、口に出すことを憚ってしまう。大切だけど、人を傷つける可能性が。。。それなら、隣の人の顔も見えなくたっていいじゃないか。
おいらがリバタリアニズムに引かれる大きな理由の一つは、そこにある。思考停止とか言うな。