MEMO

宮川公男・大守隆(編)、2004『ソーシャル・キャピタル東洋経済新報社
第四章:エリック・M・アスレイナー「知識社会における信頼」より。太字はioring。

公共政策としてのソーシャル・キャピタルは、次の3つの点で誤る可能性がある。
第1に、すべての団体活動は社会的協力につながると考えることである。…友人と付き合うのにはよいが、大きな社会的目的は持ってはいない。私達は、社会的連帯という善に期待しすぎているのである。(略
第2に、原因と結果を混同する可能性があることである。…多くの学校でボランティア活動が義務化されているが、若者が学校で強制される義務的なボランティア活動を行うことで、信頼度が高まったり、寛容になったり、大人になってもボランティア活動ををする傾向が高くなったりする証拠はほとんど無い。(
第3に、信頼より市民参加を重視してきたために、信頼の構築に必要な方策に関心を払わなくなっていることである。信頼を構築するためには、経済的不平等を減少させる政策が必要である。これは単なるイデオロギー的な議題ではない。(P148-9)

おもったより、幅広く且つ興味深い論文が多くておどろいた。
特に上に引用した章、第5章の「ソーシャル・キャピタルと情報通信技術」(ピッパ・ノリス)はとても示唆的だった。
知的財産においても、自由がどうたら・権利、権原がどうたらという議論より、クリエータとユーザー・コンシューマーとの間の信頼をどう担保していくのか。その信頼の先に文化の発展があるのでは無いか。そういう視点で行こう。むしろ落しどころが決まった(何
もちろん現在の制度から鑑みるに、リバタリアンな意見に大いに耳を傾けるところはあるとは思うのだが。