MEMO−−『ポスト・リベラリズム』ナカニシヤ出版

有賀誠 ほか(編)『ポスト・リベラリズム』ナカニシヤ出版
デイヴィッド・アスキュー「倫理的リベラリズム」(第4章)より

一般論として、倫理的リバタリアン論者は、自然権自己所有権の正当性を自明の理としており、ア・プリオリにこれを「道徳的公準」と想定する。私的所有の正当化が説得力をもつのは、彼らの言う自然権の正当性が承認されたときだけである。この自然権自体の正当性を論証しない限り、私的所有の正当化は不十分にしか行われていないことになる。ところが、この正当化を試みた倫理的リバタリアン論者はほとんどいない。これが倫理的リバタリアニズムが「基礎なき」思想である、と批判される所以である。(P70)

原理的な基礎付けは不可能ではあるが、帰結主義的な理論から私的所有の理論は補強され得る。所有のコストと、行為のインセンティブとのトレードオフについて。

つまり、所有権の成立・保護は何らかの法制を前提条件としており、この法制の確保・維持には運営上のコストは不可欠である。強調すべきは、運営上のコストをゼロにすれば、人々は法規範を遵守するインセンティブがなくなり、きわめて劣悪な誘因構造が形成されるという点、そして完璧な誘因構造の構築は、希少資源という条件の下では不可能であるという点の二つである。したがって、「完全」ではなく「次善」を追求せざるをえず、運営上のコストと誘因上の効果とのトレードオフを効果しなければいけない。(P71)

んで、そのトレードオフのパターンは4つある。図式化すると↓。

②がコストが低く、インセンティブが働くgreatなパターン
①④は、おのおのバランスを見る政策課題に発展する。
③はコストも高ければインセンティブも阻害する最悪なパターン。
まぁ、一種「常識」に近い図ですけども
そして自己所有権のルールから「先取権」(取ったモン勝ち・開発したもん勝ち)という原則が導き出されるらしい。その有用さは「共有地の悲劇」などを例として考える。
ある分野において、どれだけ上記の②のパターンに持って行くか。その検討が必要になる。乱暴な議論では、自己所有権も「そう考えておいた方が楽だから」っていうことになっちゃう(多分そんなような気がするけど)。

多くのリバタリアン論者は事実、例えば社会主義の共同体を建設する自由を認めており、明らかに経済的自由放任主義よりも、私生活自由放任主義を重視している。…リバタリアニズムが重視するのは、生活様式・選好そのものの内容よりも、それがいかなる手続きで獲得され維持されるかという点である。(P73-4)

やはりネックはココか。しかし現実の政治過程なんかに照らし合わせてみると・・・・。
厳密なプロセスのみだけ見るのではなく、理念・意義などを鑑みた形での「手続き」という解釈で行こう。


調べてみたらこのデイヴィッド・アスキューってAPUの教授かよ。
http://www.apu.ac.jp/~askew/
さらに、この人今月の「諸君!」に寄稿してるー!!

南京大虐殺の「亡霊」
アスキュー・デイヴィッド
立命館アジア太平洋大学助教授)
政治的利害に翻弄される不毛な論争に終止符を。第三者の視点で「南京論」を徹底比較
http://www.bunshun.co.jp/mag/shokun/

やべ、ちょっと読みたいw