ナショナリズムのお勉強

『現代の政治イデオロギー』の9章は半分読みました。
この本、なかなか面白そうなので、お金はいったら買おうかなと思います。
田口先生の『政治学講義』は書き込みとかがひどすぎて読めませんでつた(; ´Д⊂)


んで、今日読んでるのは坂本多加雄『国家学のすすめ」
国家学のすすめ (ちくま新書)
まだ一章までしか読んでないけど、良書かな?って感じ。
いくつか引っかかる点とかはあるけどもね。例えば次の文章。

こうした現在の国家の相対化を説く議論に潜んでいる特徴的な傾向は、人類史に不可逆的な「進歩」の流れをがあることをどうしても確認したいとの思いから、世界の差様々な出来事の中に、そうした「進歩」の兆候を見出しては、それをそのまま現実の日本を取り囲んでいる環境に当てはめて「バスに乗り遅れるな」式の議論を展開することである。(p30)

個人的に、この議論は少々形を変えて”保守”と言われる側にも当てはまると思う。
最近の国際貢献、対米関係の議論は「乗り遅れたバスに追いつけ」式じゃないのか?
 あと、「国家はフィクションか?」という節において

・・・人間から「創られた」ものが「フィクション」だとすれば、人間生活を取り囲むほとんどすべての存在がフィクションということになるであろう。
(中略)
 問題は、「フィクション」であるか否かではなく、その「フィクション」が何のために存在するのか、あるいは必要とされているのかということである。(p51-53)

言いたいことはわかる(つもり)し、理解も出来る。
ただおいらが思うのは、国家にしろ何にしろ、ある存在が「フィクションじゃないの?」と思える・思えてしまう土壌・環境が生まれて来たってことに目を向けるべきじゃないのかな?ということ。
国家というものが、普通にそこにあるもので・そこに意義や有用性をみんな意識的にしろ、無意識にしろ感じていたのならば、そもそもこの本が出版されることも無かったとおいらは思う。
だからこそ、「国家」というものについて考える必要があるんだろう。
そしておいらたちが、これから新たな国家像というものを考えていけばいい。
それが、アナルコ・キャピタリズムの方向に向かうのか、はたまた国粋主義の方向に向かうのかは知らないけどネ。


坂本氏の著作を真っ向から読むのは実は初めて。
昔、「正論」を読んでたり、「つくる会」に傾倒していたときはいくつか論考を目にしてたんだけどね。
この人が亡くなったことは俗に”保守”と言われていた陣営にはものすごい痛手だと思う。
主義主張に関係なく、まともな研究者がいなくなるというものは淋しいものです。


最後に、第一章において全面的に頷けた一節を引用して締めるとします。

実際、たとえば、他ならぬ政治という言葉についても、現実の国会と称される場で展開されている現象を直ちに「政治」と称して研究するだけでは、そもそも、そうした「政治」を研究するに至った研究者の実践的な意欲を満たすことにはならないであろう。現に多くの研究者は、現実に目の前に展開されていることとは別に、政治について「規範的イメージ」を心の中に持っているはずだからである。といって、そうした規範的イメージはそれぞれの研究者の任意によって作り出されたものであろうか。おそらく、そこには、そうした政治のイメージが創られていく政治学の発展の歴史があるのであり、個々の研究者の政治の規範的イメージもそうした歴史に関わりながら、形成されてきたのである。私たちの政治の規範的なイメージが創られたきたかを探求することで、その客観的な性格と機能を明らかにすることが出来るのである。(p28)

かといって、実証分析というものをおろそかにしてはいけません(自戒)