決断

人間には決断をしなくてはいけない時がある。
決断によって自分の世界を切り取る。作り上げていく。
これが運命を切り開く行為と、俺は認識してる。
でも、決断には犠牲がついてまわる。
何かを「する」時は、同時に何かを「しない」こと。
自分が決断をした領域がある一方、切り捨てた領域が存在する。
人間は生きていく中で、そんなことをいちいち気にしていないで決断を行っている。


その決断の「切り捨て」の部分が如実に見えるとき。
そんな時に、人は悩む。
自分の決断が自分に・社会に影響を与えていることが見せつけられる。
そんなとき、人は決断を恐れる。


自由意志に基づく決断がしたい。
ポストモダン的な社会決定論なんてシラネーよ。
たとえ社会のしがらみの中であろーとも、内省的の罠の中であろーとも。
俺は決断をする。その結果責任を引き受ける。
それが自由意志の理念だと俺は思ってる。
だけど、みんな自由の責任を負っているのか?


Aという決断を行う際に、負の影響を理解して決断する者とそうで無いもの。
おそらく後者の方が幸福、そしてお気楽だろう。前者は苦しみ、そして悩む。
しかし、前者の方が「自由」だ。あえて言う。
結果責任を負う自由がある。決断の意味を理解し決断する自由がある。
だから、自由は辛いんだ。
何を決断しようと、負の影響がついて回る。その責任は自分が負う。



俺は今日決断をする。
この決断には多大なる負の影響がついてくる。わかってる。
恐らく、幾人かを悲しませ、反感を買うだろう。
そして恐らく、幾人かを安堵させ、歓迎してくれるだろう。
許せとは言わない。オマエラの反感も歓迎も俺が全部引き受ける。


ただな。
これが俺の決断だ。