何もない部屋で読書MEMO−−広田照幸『教育には何ができないか』

雨のせいもあって、家で寝袋にくるまりゴロゴロしてると、何かデジャヴを感じる。
・・・!「フェリーか!」
以前、利用したことがある直江津→室蘭のフェリーは15時間航路です。基本雑魚寝部屋に毛布一枚。テレビはあってもノイズ。まさに今の状況を彷彿とさせる。
フェリーの上では読書が進んだものですが、まだネット回線というものがあるため、それほど読んではないけど。
教育には何ができないか―教育神話の解体と再生の試み
広田照幸『教育には何が出来ないか』2003年 三水社
論文集。いろんなこと幅広く書いてるんで章を別々に読んでもおもろい。

……(主体Aによる)「教える」という行為に対しては、主体Bの側に「学ぶふりをする」という行為の可能性がある。……「昔は学級崩壊のような現象がなかった」という議論はあやしいと思われるが、もし、今の方が立ち歩きとかおしゃべりが多くなっているとしたら、「学ぶふりをさせる」ためのイデオロギーや『権力が弱くなってきているためなのではないだろうか。「学びからの逃走」ではなく、「学ぶふりからの逃走」である。つまり、「教える−学ぶ」関係を見かけ上集団レベルで成り立たせるのは、主体Aの直接的な教授行為以上の巧拙以上に、主体Bを机にじっとさせておくための、より全般的な、あるいは社会の広い範囲で共有されたイデオロギーや、発動可能な形で制度かされた権力なのである。(P243)

ついつい“信頼性”や“クラウディング・アウト”の問題と考え直してしまう

 高度成長期を経て、「子どもを進学させたい」という夢は、ある意味で叶いすぎるほど叶えられた。家計簿とにらめっこしながら、子どもを中等教育機関へ進学させるか否かを親たちが相談していたかつての風景は、もはや忘却の彼方である。大正期の鉄道機関種の子供にとって、中学や女学校へ進学することが許されることは、天にも昇るような嬉しいことであったにちがいない。ところが、今のように誰もが進学できるようになってしまうと、子供自身にとっての<ありがたみ>はなくなってしまった。「何で学校にいかなきゃならないの」と子供たちに文句を言われる世の中になってしまったのだ。学校が果たしていた選別・配分機能だけでなく、学校という装置そのものが、すっかり魅力を失ったといってもよい。
 貧しいよりは豊かな社会の方がいいに決まっている。そうではあるが、夢が叶ってしまうことは、ずいぶんつまらないことではある。(P96-7)

データから歴史を見、そこに人間の感情を見る。データの先には人間の顔がある/あったことは忘れてはいけないこと。その感情が研究や行動の原動力になるはずと、ちょっと思う。